怒りと悲しさと悦楽と
032:石に刻まれた文字を指で確かめ
いつもどおりに気怠くて。いつもと同じに無気力的に。押し込められた学校の講義は退屈でしかない。何もせずにいると時間の経つのは鈍くて一日過ごすだけでも気骨が折れた。勉学に励むでもなく就業に勤しむでもない何ものでもない時間はただそれだけで気ばかりを焦らせてひたすら消耗する。焦りと罪悪感は神経を削ぐばかりだ。何かしていないと不安だなんてとんだ貧乏性だ。だが基本式を覚えてしまえば応用が判ってしまう。下手な教師の講義は教科書にも劣る。居眠りだって無制限にできるわけではない。眠り飽きても終わらない一日に倦むばかりだ。
いつもどおりに家を出て、足の向く先は繁華街だった。だらしなく着崩した制服は狩られる側にはならないという意思表示と自分のレベルの開示だ。喧嘩の際に武器になるような装飾を付けないのは喧嘩が目的ではないから。巻き込まれるように飛び込んだ真面目でないことは着崩した制服が。あぁ、面倒くさいなぁ。それでも向かう場所は同じ場所。多少の顔見知りも出来て。ひたすらにそこで待つ。制服のままで地べたへ座り、遠慮なく脚を投げ出す。することもなく呆けるなら教室の退屈な講義より雑踏のざわめきの方がマシだ。手近なへりやくぼみを使って飲料の栓を抜く。硝子瓶の飲料ばかり探してしまう理由は判らない。瓶のほうがくすねやすい。ペットボトル飲料が店舗に運び込まれるときはたいてい箱詰めだから一本だけ失敬するのが難しい。煙草と酒は周りの面子次第だ。空気として喫む場合もあるが絶対必要なほどの中毒でもない。
「猿! はえーじゃん」
揃いの制服で赤茶けた短髪の小柄な体躯が身軽に隣へ腰を下ろす。
「美咲ちゃんこそ補習どうしたんだよ」
「そっちで呼ぶな! 補習なんかでねーっつの!」
「素直にわからないって言っとけよ」
教えてやろうか。くつくつとした笑いが瓶の中で震える。美咲はやんちゃな性質そのままの幼顔をフンとそっぽへ向けた。だがすぐに向き直ってしゃべりだす。人好きするこの八田美咲は手も早いがよく喋る。けして高度や高次元な対話内容ではないがつい返事をしてしまう部類の人間なのだ。
「なぁ猿、聞いたか? 今あっちの通りでやってる工事現場さ………」
ぼやぼやと景色が霞む。美咲の髪の色しか見えない。黒目の小振りな三白眼さえ焦点が合わずに。
「みさき?」
「伏見猿比古!」
教師が名指すかのような声色だが猿比古はその程度で怯むほど従順ではない。…はい。短い返事をして四肢を繰る。現状の把握を最優先。さっきまで何してたんだっけ? 綿のつまりが甘い長椅子。成長期になって伸びた身長にこの椅子は若干合わない。猿比古の着ている制服は三桁からの生徒が一様に揃える学校指定ではなく、青を基調にした戦闘服。帯刀しているはずの洋刀はそばへ立てかけられている。抜刀する行為自体に手続きがいるので扱いがぞんざいだ。何も知らない素人が持ったところで抜くことさえ難しいシロモノだ。
のそりと体を起こしながら見上げると珍しくも室長がいる。先ほどの鋭い誰何はこの男のものだ。
「……仮眠の手続き取ってますけど」
「緊急的に警邏への応援要請です。示威行為ではありますが無視しても障りがありますので要領の良い君にお任せします」
建前と本音が駄々漏れだった。室長、そこはせめてもうちょっと真っ当な言い訳してください。お付き合いとしての親睦だと思って適当に。建前のほうが失せている。
「了解です」
適当にと言われたので適当に返答した。怒るでもなく笑いながら、ではよろしくと背中を向ける上司を見据える。意識はすでに明瞭で現実の把握と夢の認識は滞りない。猿比古が学校指定の制服で居たのはもう昔の話だ。寝床さえもあの時とは違うのに何故だか思い出すように見る夢が猿比古をくじこうとする。みさき、か。八田美咲の現状さえも把握している。吠舞羅と名を冠する団体の所属だ。切り込み隊長として名を馳せてもいる。猿比古が別称を青服と呼ばれるこの公僕へ籍をおいたのと前後した。なんの躊躇いもなく隣り合っていたのは過去だ。今では顔を合わせれば悪罵と戦闘を繰り返す。どうしてなのかもよく判っている。強制切断された夢に重たい四肢を繰って立ち上がる。手続きとした準備をしてから猿比古は外へ放たれていく。
公僕であっても猿比古の態度や姿勢に変化はない。気に食わないなら相手が上司であろうが来賓であろうが舌打ちや咳払いをする。連れ立つのが苦手で必要もなく可能であれば単独で動きまわった。見合うだけの成果をあげるから現状としては黙認だ。いざとなれば直属の上司である宗像が痛めつけられるだけだ。ゆったりとした歩みで警邏する猿比古の前や後ろから、制服を着崩した生徒たちが騒ぎながら追い抜き、すれ違っていく。制服を着こむ真面目な生徒であればこの時間は勉学に勤しんでいるだろう。さっきまで見ていた夢の所為か制服で群れてはばらけていくのを懐かしげに流し見た。学校という所属が枷であると同時に守ってくれるものであると信じてた。何も知らなくても許されて、気づいたばかりの権利を振りかざして責任に気づいていない頃。
「…バカバカしい」
胸部がズキリと痛んだ。疼痛に思わず手を当てる。この痛みの元凶を与えた男を思い出す。象徴として定着していた舐めるような焔はたしかに名前にふさわしかった。美咲に引っ張られるかたちで顔を出した猿比古を無気力に迎えた男は口元だけを歪めた。お前みたいなのが居てもいいかもな。いつ出て行ってもいいのだと言われた気がして、初めて恐れを覚えた。ほとばしる赤が疎ましくなったのがいつからかはもう判らない。その男に美咲が懐いたのも拍車をかけた。美咲が自分だけのものなのだと思うほど猿比古はうぶではないし、出来ることと出来ないことがあるのを知っているつもりでもいた。
沼へ沈むような思考から逃げるように繁華街の裏へ裏へと入っていく。最初はただの揶揄だった美咲という女名に明確に悪意が混じりだした。嫌がられるのを承知で何度も口にする。離れてもかまわないとさえ思っていた。それは半ば自棄に近かったのだが当時は当時で手一杯だった。あっさりと限界を迎えたのは猿比古の方で、逃げるようにそこを出奔した。仲の良い集団で、居心地が良いはずのその温度の生暖かさに吐き気がした。当然のように詰問や質問を繰り返す美咲の目の前で。
その赤を焼いたのだ
何度も嗅いでいるはずの肉の焼ける匂いの生々しさがまだ思い出せる。美咲の顔も思い出せる。
舌打ちして猿比古は順路を外れた。言い分けはなんとでもきく。この警邏自体がお付き合いの延長である。多少の無理は大目に見てもらう。中途半端に放置された工事現場をうろつく。磨かれた大理石は埃っぽくくすみ、何ともわからないもので汚れていた。泥や雨垂れの侵食も激しい。夢見が悪くて気分が悪い。猿比古の不満がまだ親や世間へ向いていた幸せな頃。現在の生活には不満も支障もない。衣食住の保証があり、眠っているところを蹴りだされたり雨に濡れたりする心配もない。給金も得ている。年齢に見合わないほどの権限を与えられ、応えているつもりだ。無機的な数字とアルファベットの羅列を眺めて不備を探す生活の中でも、あの薄暗いバーで騒ぎを聞いている時よりはずっと。ずっと、そう思ってた。
「…――ちくしょう」
柱へ手をついて喘いだ。酔っぱらいの嘔吐のように連続して止まない痙攣は、乾いた喉を引き攣らせるだけで涎しか出てこない。
猿比古はすぐに食事が細る。栄養補助食品で済ませてしまうことも多い。カロリーが足りているならいいだろうと思ってしまう。その所為かどうか知らないが、猿比古の肌は昔から青白いほどだ。髪が青を含む黒であるから余計に際立つ。黒縁の眼鏡も顔の部分を相手に明確に認識して欲しい含みもある。ずるずるとへたり込む大理石に文字が刻んである。思い出す。八田美咲と伏見猿比古の名前がそれぞれに違う筆致で刻んであった。脳が冷えていく。身動きを取るのを忘れ、中途半端な姿勢のままで硬直した。
「ぁ、う、あぁ…――…」
美咲が珍しくも学術的な知識を得た時に。
「大理石って石の中じゃ柔らかいんだって! 名前とか彫れっかな?」
「お前は墓石とか見たことないのかよ」
「カラースプレーじゃ消されるし」
「犯行声明は阿呆のやることだぜ」
夜中の工事現場に忍び込んだ。中途で工事を中断することが多い質の悪い管理会社を選ぶ。管理が杜撰だからという以外の理由はなかった。案の定忍びこむと工事は順調とは言いがたい状態だ。多分ここも放置されるな。
コレに刻めよ。石を指定したのは猿比古だ。建物の土台にされるような石を削ってはまずかろうと持ちえるだけの知識を駆使した結果、取り換えがしやすく傷もつきやすいのを選んだ。パネルっぽく貼り付けるだけみたいだからすぐに外されるだろうけどな。そもそも資材の管理が杜撰なところを見直すきっかけになるかもしれないとさえ思っていた。たぶん、興奮していたのだ。美咲が手早く調達した鉄は釘にも棒にも見えた。先が尖ってるからこれで平気じゃね?
『オレたちずっと、ダチだよな!』
まっさらな笑顔と。興奮で赤らんだ頬と。
「――!」
足元の泥を投げつける。腐った果実のように潰れる音をさせてパネルが汚れる。砂利やほこりやつかめるものを掴んで投げつける。しょせん子供の彫りつけ跡である。溝がすぐに泥で埋まってパネル全体がどろりと汚れた。肩で息をする猿比古は喉の引き攣れでようやく目線を上げた。食いしばる歯の後ろからもれてくるのは泣き声ではない。何も知らずに何もしない自分への呪詛だった。
『猿?』
『伏見?』
『伏見…』
『伏見くん?』
全方位から聞こえてくる誰何に耳をふさいだ。頭を抱えて地面に這いつくばる。
「……呼ぶな」
『サルヒコ? お前の名前おもしれーな。オレも人のこといえねーんだけど』
赤茶けた髪。年齢より幼い笑顔。標準より小柄な体躯。スケートボードってかっこ良くないか? 実は集まってるとこみつけて! ちょっと借りて教わっててさ。金たまったら買うんだ。お前もやらね?
なぁ、猿。
猿、このあいださ。
おい猿、聞いたか?
「うるせぇんだよ…」
眼鏡の位置がずれている。視界がぶれてぼやけた。涙などないほどに眼球が乾く。怒りの軋みに歯を剥き出す。美咲は猿比古が見限ったあの団体にまだ所属している。あまつさえ切り込み隊長としての二つ名を得るほどに力をふるう。敵だ。あいつはオレの敵。羅列する言葉は呪文のように、それを現実なのだと思わせようと執拗に繰り返す。
現実に猿比古は美咲と会うたびに女名を揶揄し、挑発し、互いに能力を駆使した戦闘にまで発展させることもしばしばだ。美咲がオレに向けるのは笑顔なんかじゃなくて。オレがあいつに向けるのは弛んだ表情なんかじゃなくて。
『頼む……――猿比古』
黒曜石の双眸が収束する。黒縁の眼鏡の奥で見開いた双眸は収束して揺れる気さえした。美咲が猿比古を猿比古と呼ぶのは本当に助けて欲しい時だけだった。にっちもさっちもいかなくなって、美咲一人では無理なのだと、猿比古と名前を呼ぶ美咲は普段から考えられないような気弱な震えを帯びた声で説明と懇願をした。お前の力が必要なんだ、猿比古…
「あぁ…――……ちくしょう」
仰ぎ見た空の抜ける青。紅く染まらない空の青が目に染みた。
「なんでお前が、まだオレを、呼ぶんだよ…」
眩しげに瞬く眦から一筋が頬を滑り落ちた。
その口元がゆるく笑んだ。
《了》